S2 SHISHA
History & Culture2026.07.249分で読めます

たばこを吸えば、死刑だった

――それでも兵士は、処刑に立ち会いながら袖のパイプを吸っていた

たばこを吸えば、死刑だった — 記事キービジュアル
このページの目次

最後の審判の日、喫煙者は顔を真っ黒に煤けさせ、首からシーシャ台をぶら下げて現れる——十七世紀のオスマン帝国で、たばこに反対する論者たちは、大真面目にそう書き残しました。それほど憎まれてなお、たばこは百年たらずで、五歳ほどの子どもまで吸うほど行き渡りました。17〜18世紀のオスマン中東で続いた、この長い応酬を追った論文があります。かさばって袖に隠せないシーシャ台が、喫茶店というまったく新しい場所に居ついていくのも、この時代のことです。

舶来品が、百年で国産品になった

たばこがオスマン帝国の中東に届いたのは、16世紀の終わりごろ。ヨーロッパの商人が運んできた舶来品でした。南アジアにはそれより早く、16世紀の半ばには最初の葉が届いており、そこを起点に17世紀の初めには中国と日本にも達しています。地球を一周する速さで広がった嗜好品だった、ということです。

根づくのも早かった。1700年ごろには域内でほぼ自給できるまでになっていた、と論文は記します。マケドニアやアナトリア、北シリアが主な産地で、そこへ評判の高いイラン産が加わる。伝来からおよそ百年で、舶来品は国産品になりました。

そして、安かった。17世紀末には重さあたりですでにコーヒーより安く、1800年にはその差がおよそ3倍にまで開いています。1682年、ダマスクスの法学者ナーブルスィーは、あらゆる階層の人間がたばこに没頭していると書き、五歳ほどの子どもが吸っているのを見た、とまで記しました。論文の言い方を借りれば、コーヒーではなく喫煙のほうが、オスマンの人々にとっていちばん手の届く娯楽になっていた。

地獄の業火まで持ち出した「大たばこ論争」

広まりが急なら、反発も急でした。この論文が Great Tobacco Debate(大たばこ論争)と呼ぶ、長い応酬の始まりです。非難の切り口は、驚くほど多方面にわたります。酒に類する陶酔である。体力を損なう「疲れ」の源である。口臭が残る。髭や口髭、衣服を灰で汚すから、「忌まわしいもの(ハバーイス)」に分類すべきである。怠惰と放蕩への誘い水である。イスラムの道徳秩序を掘り崩す「ビドア」である——預言者の時代に無かったものを後から持ち込むこと、という意味の非難語です。エジプトの学者ラカーニーに至っては、たばこは知らぬ間にキリスト教徒の慣習に染まる道だと説き、葉が酒や豚脂に浸されている疑いまで持ち出しました。

圧巻は、冒頭に引いた地獄の比喩でした。火を入れれば煙が立つ——その一点から、業火と永劫の責め苦まで連想してみせた。想像力の使いどころとしては、なかなかのものです。

非難がこれだけ多方面に及んだこと自体が、一つの答えになっています。決め手が一つあれば、それを言えば済む。陶酔から口臭から陰謀論まで並べ立てたのは、裏を返せば、どれも単独では効かなかったということです。論争がこれほど長引いたのも、そのためでしょう。

禁じたい。しかし、根拠がない

ところが、決め手を欠いていました。クルアーンには、たばこを名指しで禁じる一節がありません。酒のように明文があれば話は早いのですが、16世紀末に届いた葉のことが、7世紀の啓示に書かれているはずもない。

この行き詰まりに、正直に向き合った人がいます。パレスチナの法学者カルミーは、自身はたばこを深く嫌っていました。それでも法学の文献をいくら探しても禁じる根拠が見つからず、禁止するには不十分である、と結論します。嫌悪と、法の判断とを、混ぜなかった。

決着に近いものを与えたのは、先ほどのナーブルスィー——オスマン領シリアで最も卓越した学者の一人と評された人です——でした。1682年、彼は喫煙を完全に合法と宣言します。医学上の害を言うのなら、それは医者の領分であって、医学を修めていない学者が口を出すことではない。コーヒーが人を酩酊させないように、たばこも酩酊させない。新奇なものといっても、それが暮らしの慣習に属することなら、イスラム法に反しないかぎり咎めだてするには当たらない。そして——信徒は、楽しむことを恥じなくてよい。

かさばる、という個性

シーシャ台の話は、ここから始まります。シーシャ台がインドとイランで広まったのは17世紀の初め。そこから西へ西へと、オスマン中東に伝わっていきました。市場には、優美な水晶の瓶から、頑丈な陶器、磨いたココナッツの殻まで並んだといいます。

当時いちばん実用的だったのは、木や陶土でできたごく普通のパイプでした。短いものは、要らないときや人目をはばかるときに袖へ押し込める。長いキセルは、いくつかの部品に分けて運び、その場で組み立てる。要するに当時のパイプは、どれも携帯性をめぐって工夫を凝らしていた。

その中で、シーシャ台だけが逆を向いています。かさばり、火を入れるにも手間と時間がかかる。袖に隠すどころではありません。だからこの道具が根づいたのは、腰を落ち着けて長居できる場所——喫茶店や公衆浴場でした。その不便さが、そのまま「急がない」という作法を連れてきたわけです。

もっとも、当時のシーシャ台がどのくらいの頻度で炭を替えられていたのかは、論文からは読み取れません。かさばるという一点は同じでも、手間の中身がいまと同じだったかどうかは、分からないままです。

喫茶店という、新しい発明

その喫茶店が、そもそも新しいものでした。中東の町の歴史をさかのぼっても、これに比べられる場所は見つからない、と論文は書きます。近いのは公衆浴場くらい。ただし浴場は壁に囲われた半ば私的な空間で、喫茶店のほうは市場や町並みに開かれ、昼から夜まで人の出入りが絶えません。

イスタンブールの喫茶店には、任官を待つ元役人、判事、教師、職のない者、暇な者が、慣れない近さで肩を並べました。ニュースと噂が行き交い、音楽が鳴り、人形芝居がかかり、文学が朗読され、チェスとバックギャモンの盤が出る。1750年のダマスクスでは、バラダ川の岸辺に男よりも多くの女たちが座り、男と同じようにコーヒーとたばこを楽しんでいて、町の人を驚かせています。

道学者たちは、これを恐怖の目で眺めました。ダマスクスの学者ナジュムッディーン・ガッズィーは、喫茶店を悪魔の隠れ家と呼んで憚りません。けれど当のガッズィーが嘆いていたころには、喫茶店はすでに彼の故郷ダマスクスの街区と市場に根を下ろした、当たり前の設備になっていました。

皇帝は死刑にしてでも止めようとしたが

この広まりに強い危機感を抱いたのが、皇帝ムラト4世(在位1623〜1640)でした。1633年、イスタンブールの喫茶店を閉鎖し、喫煙を死刑の対象とします。皇帝みずからひそかに市中を巡り、現場を押さえた者はその場で処刑された、と記録は伝えます。取り締まりとして、これ以上は望めないほど苛烈な部類です。

それでも、止まらなかった。イラク遠征に書記として従軍した年代記作者キャーティプ・チェレビーが伝えるところでは、処刑に立ち会うよう召集された兵士たちが、その最中に、袖へ隠したパイプで静かに吸っていた。将校の目が届かない厠で吸う者もいた。皇帝の軍隊の内側で、皇帝の禁令はもう敗れていたわけです。

1650年までには禁令が解かれ、喫煙はふたたび合法化されます。そして1691年、正式な課税対象となりました。オーストリア戦線での敗北と、慢性的な現金不足。同時代のヨーロッパ諸国と同じく、オスマン帝国も財政の必然に屈した、というのが論文の見立てです。

炭を替えるという仕事

史料に残っているのは、禁令と罰と課税の話ばかりです。喫茶店の隅で、誰が誰と何を話していたのかは、まず書き残されない。当時の卓のにぎやかさは、それを恐れた道学者の悪口を通して、間接的に伝わってくるだけです。

シーシャ台は、いまも手間がかかって、かさばります。火を入れ、煙が回るのを待ち、味が落ちるたびに炭をいじる。この道具まわりの段取りだけは、四百年たっても短くなっていません。

だからうちでは、炭を何度でも替えます。煙を切らさないためであり、同時に、卓を急かさないためでもある。仲間で囲んでいる卓にも、一人でぼんやりしている卓にも、同じだけ替えに行きます。家で吸う人が同じ手間をかけているのも、たぶん同じ理由でしょう。

禁じるのをやめて課税する、とオスマン帝国が決めたのが1691年でした。悪徳が税目に変わった日です。四百年後の私たちが今夜も怒られずに炭を熾せるのは、その決着の、ずいぶん遠い余波にすぎません。

S2 reads it this way

S2はこう読む

  • たばこは16世紀末にオスマン中東へ伝来し、1700年頃には域内自給に。17世紀末にはすでにコーヒーより安く、1800年には価格差がおよそ3倍に開いた。1682年には「五歳ほどの子どもまで吸っている」と書き留められている。
  • 宗教学者は陶酔・忌まわしさ・怠惰・「ビドア」と多方面から非難したが、クルアーンに明文の禁止はない。嫌悪しつつ「禁じる根拠がない」と結論した法学者カルミー、医学上の害は医者の領分だとして1682年に合法を宣言した碩学ナーブルスィー。決め手を欠いたまま、論争は百年以上続いた。
  • 当時のパイプが携帯性を競うなか、シーシャ台だけが逆を向いていた。かさばって火を入れるにも手間がかかるこの道具は、長居できる喫茶店や公衆浴場に根づく。不便さが、そのまま「急がない」という作法を連れてきた。
  • 喫茶店は、中東の町に前例のない場所だった。元役人も判事も無職の者も慣れない近さで肩を並べ、噂と音楽と人形芝居とバックギャモンがあった。皇帝ムラト4世は1633年に喫煙を死刑としたが止められず、1650年までに合法化、1691年に課税。
Honest notes

正直な注意書き

  • 歴史学の研究であり、当時の年代記や当局記録などの史料解釈に基づく。史料の性質上、当時の実態すべてを裏づけるものではない。
  • 本文で紹介した学者の言葉や逸話も、同時代の記録に残されたものであり、そのまま事実の記述として読めるとは限らない。
  • 現代の医学的知見とは無関係の文化史研究。喫煙のリスクを軽視・推奨する趣旨ではない。
  • 論文が扱うのは17〜18世紀のオスマン中東であり、現代のシーシャ文化やその安全性について直接何かを示すものではない。
  • 原典は American Historical Review 111巻5号の掲載論文で、参照したのは History Cooperative に再掲された版。正規版は Oxford Academic(academic.oup.com/ahr/article/111/5/1352/10182)にある。
Visit

読んだあとは、一本どうぞ。

← 論文まとめの一覧へ戻る